【劇団ピーターパン】

IV



 金を払って席を立つと、男物の帽子が置き忘れられているのを見つけた。
 さっきの迎えの男のだ。 
 どうするというつもりも特になかったけど、
 なんとなく帽子を手に取って店を出た。くるくる、帽子を振り回す。
 新しくはないが綺麗に使われている黒い肌触り。 

 月がやけに小さく見える夜だった。
 ふっと吹いたら飛んでいってしまいそうな頼りなさだ。 

「あはは!ねえ、いい宵ね」 
「ご機嫌だな」 

 男女の声がした。なんだ、まだ近くにいたのか。
 石畳がカツコツ鳴り、人の姿が現れる。 

「……あ」 
「あら、さっきの人」 
「こんばんは。おや、帽子を届けてくださるなんて」 

 男はアタシの手の帽子に気づき微笑んだ。
 別に届けようとかそんなでもなかったけど、
 そう言われると他にどうしようもない。 

「ああ、まあね……」 
「飲み屋に置き忘れたものなんて
 返ってこないだろうとあきらめていましたよ。いやあ親切なご婦人だ。
 ありがとう」 
「フン。もうなくすんじゃないよ」 

 帽子を受け取る男の腕に絡みながら女は踊るようにくるりと回り、笑った。 

「ふふふ。男以外にもそれくらい優しかったらよかったのにね」 
「はぁ?何が言いたい……」 

 むら雲が流れている。月が一度かげり、雲を出て再び照らす。 
 月光とともに肉がずるりとこけて覗く骸骨、そして死臭。 
 差し出していたアタシの手には黒く長い女の髪がいく筋もまとわりついていた。 

「ひっ!」 

「ふふ。ふふふ」 

 た……たちの悪い幻だ。飲みすぎたんだろう。
 頭をふって、逃げるように立ち去る。 

 くそ、なんだろう。こんな幻覚を見る酔い方したのは初めてだ。嫌だわ。 
 もしかしたら二人に変に思われたかもしれないけど知るもんか。
 とにかく早く帰ろう。靴音を急がせる。 


 どこか遠くで女の悲鳴がした、と思った瞬間目の前を男が一人走ってきた。
 避ける間もなくドンッとぶつかってくる。 

「痛いじゃないか!」 
「わりぃね」 

 走り去る男の手には、財布。なんてこった!スリだ! 

「ドロボー!だれか!」 

 隣の角から誰かが走って行ってくれた。
 アタシも起き上がり、なんとか追いかける。
 アタシの他にも被害者らしい娘が駆けつけた。

「離せよっ!クソォ」 
「……これか?」 
「ああ!ありがとう、助かったわ」 
 寡黙な男は財布をアタシたちに差し出す。
 中を確かめると、まだ盗られたものはないようだ。 


「……気をつけることだ……あんた」 
「そうだね。ほんと良かったよ。ありがとう」 
「いや……。死相に、だよ」 
「え?」 

 顔をあげると、むら雲の隙間から差し込む月光に照らされる腐乱死体。 
 男の灰色に腐った肌から蛆が出て、アタシへと伸ばされた腕を這っている。 
 スリ男の右眼球がこぼれおち、びしゃりと嫌な音を立てた。
 女の体は古く腐った黒い血にまみれていて、吐き気がするほど臭かった。 

「い………やぁあああああああああああ!」 

 何よ。何よ。何だっつうのよ! 

 アタシはもしかして夢を見てるんだろうか?
 本当は今もバーカウンターにつっぷして寝てるんだ。
 悪い夢。そうに決まってる。
 匂いや痛みを感じる夢は珍しいけど、あり得なくはない。
  がむしゃらに走る足がさすがに疲れてもつれる。
 くそ、煙草減らそうかなぁ。 

 どこだ、ここ。ホワイトチャペル通り……か。
 脈が変に浮き足だった感じでドクドク暴れている。
 右足のくるぶしが痛い。急にバタバタ走ったもんだから靴ずれしたんだ。
 いや、夢なんだっけ?まあなんでもいい。落ち着きたい。
  煙草を取り出してみるけど、マッチが湿気てなかなか点かない。
 クソッ。マッチも煙草も投げ捨てた。 

 早く家に帰って水を飲もう。
 夢だろうが酒の幻覚だろうが、それがきっといいはずだ。 

 午前2時……半すぎ、くらいだろうか。
 しゃがみこんでいたアタシは自分を奮い立たせて腰を上げた。

  




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