【劇団ピーターパン】

V



 はらはらと浮かぶ千切れ雲が夜空の色をまだらにしている。
 上空は風が強いのか、雲影の流れは速く、暗くなったり月光が差したりを繰り返す。
 まるで切れる寸前の古い電球みたいだ。
 じくじく痛む靴ずれに舌打ちしながら、足を踏み出した。 

 光が遮られ、塗り込めたように暗くなる。また月光が戻ると、人影が見えた。 
 バクッ! 
 心臓が驚き跳ねる。背中からうなじにかけて毛穴がザワザワとあわ立った。 


「ふふ。ねえ、いい宵ね」 


 やめてよもう。勘弁してよ。何なの今日は。
 色んな思いが頭を駆けめぐるのに、どれも形にならないで消えてゆく。
 バクッ、バクッ。脈がなるたび止めようもなく手足が震えた。
 人影は子供だった。そしてとても厭な感じがした。
 厭。イヤ。嫌。他に言い様がない。
 これはよくないもの、わるいものだ。
 膨張する動悸に呼吸さえままならない。 


「そう思わない?……母さん」 


 あ、あ、厭、やめて、顔をあげないで、こっちを見ないで。 
 ぜひぜひ甲高い呼吸音しか出てこない喉と大げさに笑う膝に必死に力を込める。
 けれど足は動いてくれず、しまいに立っていられなくてへたりこんだ。
 ダメ!立って!走るのよ!
 来ないで。見ないで。知らない。アンタなんか知らないよ! 

「何よその顔。冷たいわねえ」 

 知らない。アンタなんか知らない。だってあの子は死んだんだ。 

「そうよ。ウェンディは死んだの。母さんが殺したのよ」 
「あ……アタシじゃない!違う!階段から落ちたのは事故じゃないか!」 
「そうかもしれない。
 でも目が合ったあの一瞬、母さんが私の手を取ってくれてたら、
 私は死ななかったわ」 

 ゆらり、ゆらり、青白い月明かりは緩やかな点滅を繰り返す。
 見覚えのあるワンピースをまとったくせ毛のシルエットは
 ほんの少し顔を上げたきり微動だにしていない。と思う。
 ガクガク震えているアタシの視界では何が本当なのかよくわからない。
 
「母さんはいつも自分のことと男のことしか頭になかったね。 
 男を奪われた嫉妬と、もっと酷い目に遭えばいいって憎しみが渦になって、
 私は犯されるたび憎まれる理不尽の蟻地獄ってわけ」 

 淡々とした口調が恐ろしさを倍にする。
 これは悪夢なの?幻覚なの?どっちでもいい、現実でないなら。
 ガチガチと歯が鳴る震えをこらえ、泣きそうな口を開く。 

「……アタシだって苦労してきたんだよ……。
 男には捨てられて、独り身で子供抱えて……。 
 好きでしわがれた訳じゃないのに、
 若いってだけでアンタに盗られるなんて……酷いじゃないか……!」 

 ぼわり、ぼわり。まだらの視界。アタシは涙を流していた。
 閉じない口からは今にもよだれがこぼれそう。 
 影は一度ため息をついてから、コツ、コツ、とかすかな音とともに近づいてきた。
 厭だ。厭厭厭。誰か、頼むから、夢だと言っておくれよ。 

「母さんが苦労してきたことは知ってる。愛されたかっただけってことも。 
 私が言いたいことはひとつよ。 
 『メアリー、アンタは、母親になんてなるべきじゃなかった』」 

 アタシに近寄り屈みこんだ影を月光が掠める。
 闇の塊のような瞳が二つ、ギョロリとこちらを見つめているのが分かった。 


 瞬間、声にならない悲鳴が喉を圧迫する。 


「ぎ、厭ああああああああああああああああああああああああああああ!!」 


 激痛激痛激痛激痛激痛。腹を伝うビリビリと焼けつくような鋭い直線。 
 そして、線を割り開いて侵入してくる不躾で無神経な吐き気。
 ぐず、と汚い音がする。喉が肺が胃が身体中が侵入者を拒絶しようと嗚咽する。 


「っ……ぐ……う」 
「これはアンタが持つべきじゃないものだった。
 私を孕む前にそれに気づいていれば、お互い不幸が少し減ったのにね」 

 灰青の月明かりの中で、重油みたいに黒くべったりとして見える水たまりが広がっていく。
 その液体は温いのに、アタシは凍えそうに寒くて震えが止まらない。
 ガタガタガタガタ。視界も聴覚もぶれとぼやけがひどくなってきた。

 
「……ぇ゛ン……ィ……」 
「さようなら。地獄でも会わないことを祈ってるわ」 


 少女の形をした闇は、握りしめていたそれをつまらなそうに石畳に投げ捨てて消え去った。 

 べちゃり。 

 それは情けなく小さく萎びた生ゴミだった。
 あの中にあの子が居たことがあるなんて、今となっては到底信じがたかった。


  




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